日本の建築のサステナブル(持続可能)について
古いものを残す意味を考える
冨士屋は、これからの鉄輪と湯治文化のあるべき姿を日々模索しています。来年度には新しいホテルをオープンする予定で、新たに鉄輪温泉を訪れる多くの方々をお迎えする準備を整えています。
鉄輪の未来を見据えながら日々の仕事をこなしているある時、ふと心に想ったことがありました。それは、明治末期に建てられた旧冨士屋旅館の建物についてです。120年以上が経った黒光りする柱を見つめながら、「未来を見据えるためには、過去を大切にしなければならないのではないか」。そのような想いに刈りたてられました。先人が繋いできた木造旅館建築のことをもっと知り、未来に大きく枝葉を延ばすために、根っ子をしっかりと固めてゆきたいと、強く想ったのです。この建物が鉄輪の街に在ることの意味や意義を、深く考えていきたいと思います。
そのヒントを探るため、各分野で活躍されている方々学者や芸術家、また実際に冨士屋の建物に携わって頂いている職人や建築家の方々を訪問し、未来に「大切にするべきもの」をテーマに、尋ねてまいります。
大分県日田市在住の左官職人、原田進さんを尋ねる。
日田市にお店を構える「原田左研」の2代目である原田進さんは、自然素材を使って人にとって心地良い空間づくり、「身体が喜ぶ」をモットーに日々仕事をされている左官職人です。伝統的な技術を必要とされる文化財修復や、柔軟で新しい発想によって素材を駆使する店舗やギャラリーの施工など、幅広い仕事に携わり全国の現場を駆け回っておられます。また日本の左官文化を後世に伝えることを趣旨とする「日本左官会議」の初代議長も務めるなど、その活動は多岐に渡ります。
土と漆喰を合わせた壁材「土漆喰」は原田さんの考案によるもで、土が持つ優しい風合いと漆喰による強度を併せ持ち、いまでは原田左研を代表する壁材となっています。過去の仕事や言い伝えから学びながらも、「もっと良いもの」、「もっと面白いもの」を柔軟に追及しようとする姿勢には頭が下がります。
日田のお店を尋ねてまず目に入るのが豊富な壁見本のバリエーションです。何百枚とあるそのほとんどが自然の土や砂の色によるもので、日本の自然の豊さを一目で感じることができます。そしておもむろに見せてくれたのが、田川地方で採れた真っ白な石灰岩のかけらでした。「日本は石灰の国なんですよ」と言いながら砂や藁スサ、糊になる海藻などを次々と見せてくれる原田さんの話に、聞く者は時間を忘れて引き込まれます。
生石灰を水に浸すと消石灰に変化するプロセス、海藻を焚いて糊をつくる窯、壁の下地である木舞に使う竹は民家と蔵では太さが違うことなどなど、左官仕事の奥深さと楽しさの多くをお話くださいました。そしてなんと言ってもトラック数十台分はあろうかというほどの土の山に対面し、左官仕事のスケールの大きさに驚くのでした。
本日はよろしくお願いいたします。左官仕事のこと、冨士屋での仕事のことなど、いくつかお尋ねをさせて頂きます。
まず、日田と言えば伝統的な景観を今に伝える豆田町があります。その町並み保存に携わっておられますが、古いものを残すことの意味についてどのように捉えていらっしゃいますでしょうか。
伝統的な街並みを維持する仕事は、古い壁の材料を知ることから始まります。壁をルーペで覗き、土、砂、スサなどを細かく監察し、なるべく同じ壁になるように材料を集めます。江戸時代に建てられた豆田町は天領(江戸幕府の直轄地)でしたので、やはり質の良い仕事をしています。多くの建物の壁に白漆喰が塗られているのは上級の印なんです。
建物全体を観れば、日田の木材、筑後川や有明海に関わる素材が建材として使われています。左官仕事の特徴で言えば貝灰でしょう。貝灰は有明海で採れる赤貝の貝殻を焼いて採れる灰のことです。貝灰を入れた漆喰は独自の白さがあり、また抗菌作用もあって長年重宝されてきました。一昔前までは貝灰は全国で使われていたポピュラーな素材でした。地方によっていろいろありますが一番高級なのはハマグリの貝灰です。
日本各地で身近に採れる素材が建材として使われていた。そのため古い建物は土地の個性を表すものだったのですね。
残念ながらウチで使っている貝灰の生産者である田島さん(田島貝灰鉱業所/柳川市)は近々仕事を引退されます。有明海産の貝灰を作る方はもういません。筑後の文化の一つが消えてしまうことは寂しい限りです。原田左研として今後、石灰を代用して漆喰を作ることになるでしょう。
全国一律で同じような建材が流通し、どこも同じような街並みや景観になっていることは残念ですね。
少し前までは、どこの地方でも身近にあるものを工夫し、暮らしに利用してきたんだけど、今は難しいね。山や川や海が元気だったのは人が利用した後にちゃんと還していたからだよね。いまはそもそも自然に還らないもので溢れていて、なんでも捨ててしまうから土地が痩せる一方だよ。左官の土なんかそのまま放っておいても何も問題ないよ。幸いに日田は筑後川のおかげで砂は豊富にあるのでまだ大丈夫だけど、全国的にみると砂も貴重なものになってきていますね。
冨士屋は時代を跨いだ職人仕事の集大成
今回、富士屋のフロントの壁を塗ってくださいました。赤みを帯びた波模様が印象的ですが、施工した壁について教えて下さい。
冨士屋さんの建物は明治時代に建てられ、昭和や平成に数回の改修を行っていますが、過去の仕事を観るとその時代の特徴がよく分かります。昭和の改修時にボードで覆った壁は呼吸が止まっていたり、自然由来ではない素材が混入したりしており、再生できるものときないものがありました。
塗った壁についてですが、はまずいくつかのサンプルをお見せして、フロントの壁は福岡市の平和という地区で採れる赤い土を選んでもらいましたね。そこに漆喰、麦、麻などを混ぜています。赤みがあるのは鉄分を多く含んでいるためで、粘土質があって良い壁土です。模様は別府湾の眺望を想って決めました。鏝や竹などを使ってテクスチャーを付けてゆくのですが、最後には松の葉を用いて「松葉引き仕上げ」という技法で波を表現しました。
奥の床の間のある部屋は日田の神来という地区で採れた土です。じゃっかん黄色みがあり、川砂、藁スサ、銀杏藻を焚いた糊を混ぜています。
冨士屋は明治から現在の令和と、各時代の職人さん達のリレーによって現在の建物が成り立っていますが、今回、原田さんに塗っていただいた壁によって、また雰囲気がガラリと変わりました。
私の仕事は「あいだを塗ること」だと思っています。それはどういうことかというと「空間を整える」という感じでしょうか。以前、福岡の香椎にある徳純院というお寺の納骨堂の壁を塗らせて頂いた時のことです。この空間にお母さんの胎内をイメージして、赤みのある土に漆喰を混ぜて桃色の土漆喰を塗ったんです。そうしたら天井から畳のあいだの場の雰囲気が、なんとも言えないけれどいい感じになったんです。その時に、左官は壁を塗るのではなく、空間を塗るというのかな、そんなふうに思ったのです。多くの職人の仕事によって成り立っている冨士屋さんの空間作りに、今回、私も仲間に入れて頂いたわけですが、これから始まる新たな物語に関われてうれしく思っています。
昔の仕事と今の仕事がバランスよく調和して新しい空間が出来上がったことを私達も嬉しく思っています。改めて、土を使う左官仕事の重要性などについてお教えくださいますか。
最近、ある本を読んでいるのですが、人間の身体の中と健康な土壌は同じ状態らしいんですよ。自宅でも健康な土壌を作って小さい畑をやっていますが、基本的に自然任せで何もしません。それでも健康で美味しい野菜が出来上がります。キーワードは菌やバクテリアです。自然の森も人間が介在しなくても常に葉を茂らせていますが、それと同じ状況を畑でもしています。菌やバクテリアがもたらす作用を利用して育った野菜を人間が食べて、その土で覆った空間で暮らす。どこか神秘的な土を扱う左官って面白いなあと、なおさら感じています。やはり人は土に触れると不思議と安心しますよね。土壁が塗られた部屋に居ると心が整うという人がたくさんいますが、それは人間と土が菌で繋がっているからなんですよね。「人と土の距離を近づける」ことができれば、未来はもっと面白くなるのではなないかと思っています。その手段としての左官を、もっと追及していきたいですね。
“裏の仕事”に時間をかける
原田さんにお話を伺い、お仕事の一端を見せてもらいましたが、最後におっしゃった「人と土の距離を近づける」という言葉は印象的でした。経済成長を経て岐路に立つ現在を生きる私達にとって、その言葉は衣食住の全てにおいて当てはまるように思います。
そしてもう一つ感じたことは、“裏の仕事”の重要性です。一般的に左官仕事といえば、鏝を持って壁を塗ることですが、その“表の仕事”は左官の仕事全体でいえば僅かなものだということです。仕事の9割以上、ほぼ全ての時間は材料作りや試行錯誤の繰り返しであり、それらの“裏の仕事”があってはじめて左官仕事が成り立つということです。
土を探し、土を掘り、土を運ぶ。そしてその土を砕いてふるいにかける。荒壁土を寝かし、砂やスサを加えて土を練る。当然、砂や漆喰なども使えるようになるまで同じようなプロセスがあるのです。スサを確保するために米作りから行っている左官職人に初めて出会いました。次の現場の仕上げは何なのか、下地は何なのか、考えることは尽きません。壁を塗る前にするべき膨大な過程を経て、私たちが目にする壁が出来上がっているのです。
それは利益というゴールに向けて最短距離を行くのが正しいとされる今の時代の主流とは真逆の仕事といえるかもしれません。しかし、その仕事には現代人が忘れてしまった、大いなる自然と対峙することで生まれる、人間にとって大切ものが色々と詰まっているようにも思います。
自然が育んだ素材を、じっくりと時間をかけて準備をし、人の手と身体によって施された仕事というものは、長い年月をかけてじわじわと美しさが滲みでてくるような、味わい深くてかけがえのない存在のように、私には映りました。
PROFILE
原田進(はらだ すすむ)
1958年 大分県日田市生まれ。「原田左研」2代目。左官職人。
1976年、大分県立日田林工高等学校卒業後、父に師事。1980年、熊本県立職業訓練短期大学校左官科に入学(2年後に自主退学)淡路島の久住章氏に師事。三和酒類「安心院葡萄酒工房」、由布市の旧日野医院の修復、豆田町の保存改修などに携わる。2001年よりドイツのアーヘン工科大学サマーセミナーの講師を務める。「あいだを塗る人」をテーマに多くの現場に携わり、2012年、一般社団法人「日田職人会」を立ち上げ。2012年〜2015年一般社団法人「日本左官会議」初代議長を務める。